塩川町の金川発電所と、近代土木遺産Bランクの猪苗代第四発電所、九州から来た切立橋、発電所の近くの金川公園(駒形山)

もくべい

今日は、塩川町のなかでも磐梯町寄りのところにある、水力発電所とその付近をご案内します。

こんなまず

ちょっとマニアックな内容だけど、廃墟や産業遺産が好きな方には楽しんでもらえるんじゃないかな。

といっても、まだ可動しているから、今日ご紹介する場所は稼働遺産だね。

古川

とある産業遺産マニアの方が、会津若松市の市役所は、建物も素晴らしいし、現役で使われているのもすごいとおっしゃっていました。

会津若松市だけでなく、塩川町にもそういうものがあるんですね。

骨皮スジ夫

塩川町にもいろいろと面白い場所があるんですよ。まずは金川発電所からご案内します。

塩川町から猪苗代町、郡山市方面へ向かう県道7号沿いにある、水力発電所です。

明治45(1912)年7月18日に喜多方水力電気により計画され、紆余曲折を経て、大正8(1919)年10月に運用開始されました。

もくべい

こちらは金川発電所の上部水槽と水門です。

こんなまず

ここは上部水槽だよ。

骨皮スジ夫

上部水槽と排水門です。

もくべい

こちらは金川取水路です。

骨皮スジ夫

ここは水門、取水口です。

写真を撮りに行った時に、金川発電所の下流で釣りをしている人がいました。

高校生の時に、父親の釣竿を無断で持ち出し、金川発電所の下流で釣りをして、大物が掛かって引き上げる時に、釣竿を折ってしまって、父親からこっ酷く叱られてしまったことがありました。

こんなまず

金川発電所からもう少し、磐梯町寄りの場所に、猪苗代第四発電所があるよ。

猪苗代という名前が付いているけど、この場所は喜多方市塩川町になるんだ。

僕が住んでいる日橋川は、猪苗代湖から流れ出てる唯一の川なのさ。

猪苗代湖と、僕らが住んでいる会津盆地の間には300メートルを越える落差があるから、猪苗代第一・猪苗代第二・猪苗代第三・日橋川・猪苗代第四・金川の6つの水力発電所があるんだよ。

ちなみに猪苗代第四発電所は、大正15(1926)年11月に運用開始だから、金川発電所より少しあとにできたんだね。

もくべい

こちらの建屋は、大正15(1926)年完成当時のままの状態です。近代土木遺産Bランクに指定されているんですよ。

古川

ここは、県道7号を通ると見えますよね。歴史ある水力発電所だったとは。

こんなまず

この近くには、もう一つ、歴史ある建造物があるんだよ。

それが切立橋(きったてばし)。明治23(1890)年製造のドイツ・ハーコート (Harkort’sche Fabrik) 製さ。すごいでしょ。

もくべい

この橋は、猪苗代第四発電所建設に伴い設置されました。

もともとは、福岡県の矢部川に架かる矢部川橋梁に使われていて、それがここに移設されたんですよ。

当時の猪苗代水力電気(東京電燈の前身)の社長が、九州鉄道(初代)の元社長であったため実現したとされています。

近代化産業遺産です。

古川

ここは渡ってもいいんでしょうか?

もくべい

一般道の橋として開放されているので、渡っても大丈夫ですよ。

なお、この橋の維持管理は東京電力が行っています。

骨皮スジ夫

この近くには、金川公園(駒形山)もあります。

私が小学生の頃の遠足で来ていた公園です。

水路沿いは桜並木です。

骨皮スジ夫

私の頃、小学校の秋の遠足は、金川公園に歩いて行っていました。

持参した弁当やお菓子を景色を見ながら食べたり、公園内を散策して、きのこを採ったり、栗を拾ったりした思い出のある公園です。

学校から金川公園まで遠くて、往復徒歩でしたので、とても足が痛かったことも思い出しました。

今は金川公園、遠足に使われていない様です。

古川

えっ?塩川小学校からここまで歩いていたんですか。

恐ろしいですね。私の時代にはすでになくなっていました。

小学生が歩く距離じゃないですよ。栗拾いは楽しそうですが。

骨皮スジ夫

小学校の秋の遠足以来の約47年ぶりくらいに、金川公園(駒形山)に行ってみました。

遠足に来ていた頃は、歩道や公園内も整備されていて綺麗だったのが、今は公園の利用活用がされていないためか、整備されておらず草が伸び放題状態でした。

そして、車で公園に上がれる道路の脇に、工事の現場事務所が建っていて、車両もたくさん駐車されていました。

今、金川発電所の改修工事が行われています。

塩川町は川の恩恵を受けて町であると、金川発電所を見てつくづく感じました。

もくべい

金川発電所のあたりは、昔から塩川町の重要な場所なんですよ。

天正17(1589)年、摺上原(すりあげはら)の戦いの頃には、伊達政宗が一時滞在したと言われる、三橋城がありました。

伊達政宗は、三橋城から会津若松市の黒川城(現在の鶴ヶ城)に移り、蘆名氏の所領であった会津盆地の一帯が、伊達政宗の支配下となりました。

豊臣秀吉の時代ですね。

こんなまず

別府の一里塚の記事で、蒲生氏郷の時代に、別府の一里塚を通る塩川通りが、米沢街道の本街道になったとご紹介したよね。

その前の時代までは、金川発電所のあたりが、会津若松市と米沢市を結ぶ重要な道だったんだよ。

だから、三橋氏という有力な領主が居城を構えていたんだけど、米沢街道の本街道が変わったことで、三橋村は農村集落に変貌したんだ。

そして今の塩川町の中心部のあたりが、舟運の一大基地となり、会津盆地有数の商業拠点に発展するようになったのさ。

この記事を書いた人

古川恵子

塩川なまずの里の会の古川です。物語の解説と、塩川町の観光情報の発信をしています。

塩川町出身、普段は都内でフリーランスのWebデザイナーとして活動しています。