塩川町の別府の一里塚と蒲生秀行公

もくべい

今日は、別府の一里塚をご紹介します。

一里(約3.9㎞)ごとに塚を築いた里程標です。みちしるべですね。

ちなみに別府というと、大分県が有名ですが、塩川町の別府の地名の由来は不明とされているんです。

もくべい

かつては一里ごとにあった一里塚ですが、2つの塚が道の両側に現存しているのは珍しいんですよ。

明治維新後の取り壊しを免れて、学術史料として、昭和33年8月1日に、県指定史跡になったんです。

なお、現在は道標の一部が、駒形神社に移築されています。

こんなまず

1608年に近世の米沢街道が確立したから、この一里塚はそのころ作られたものだね。

蒲生氏郷公の息子、蒲生秀行公が領主のときのことさ。

時代でいうと、江戸時代が始まってすぐの頃だね。

古川

蒲生秀行公は、奥会津の只見川に毒を流すという事件を起こしたなんて説もありますね。

彼がドラ息子だから、会津に大地震が起きたとか。

こんなまず

彼が生まれた頃はまだ、戦国時代だったし、複雑な時代だったんだよ。

父親を早くに亡くして、13歳と幼くして家督をついだから、お家騒動も起きてしまったしね。

徳川家康の娘婿だったから、30歳でなくなる前には松平姓も与えられているし、今、想像されている通りの人物像かは、分からないよ。

あと、地震は天罰じゃないからね。

もくべい

まあまあ落ち着いて。

ともあれ、米沢と会津若松をつなぐ街道として、諸大名がここを通ったんですよ。

出羽三山参りや、会津柳津にある柳津虚空蔵尊参りにも使われていました。

古川

当時は賑やかだったんでしょうね。

場所は、塩川中学校から、喜多方市内の方面に少し進んだところです。

この記事を書いた人

古川恵子

塩川なまずの里の会の古川です。物語の解説と、塩川町の観光情報の発信をしています。

塩川町出身、普段は都内でフリーランスのWebデザイナーとして活動しています。