先日、弾正ヶ原の写真を撮りに行ったらケヤキの木がなくなっていました。
市に問い合わせたところ、いつ倒れたのか、はっきりしたことは分からないようなのですが、2018年の夏より前には倒れていたそうです。
上の写真が以前の弾正ヶ原です。画像の左側にケヤキの木があります。
下の写真では、ケヤキはなくなっています。
今から137年前の明治15年に、民権派農民のリーダーが登って演説したケヤキですから、しかたありませんね。
明治15(1882)年2月、福島県令三島通庸(薩摩閥)が着任したんだ。
そして、会津三方道路の建設を厳命したの。地元の人達は反対を道路の建設を反対したんだけど、押しきって着工したんだよ。
当時は貧富にかかわらず16歳~65歳までの男女毎月1日2年間の労役が課せられたのさ。
毎月1日ですか?・・・今の感覚だと、そんなにひどいとも感じませんね。
うーん・・。でも車もない時代だからね。
とにかく、これに従わなかった地元の指導者たちが逮捕されたの。
農民はこれらの指導者の釈放を要求すべく明治15年11月28日「弾正ヶ原」に集まって決起大会を開いんだよ。
民権派農民のリーダーがケヤキに登って演説し、1,500~2000人が大挙して喜多方警察署に押しかけたんです。
この一連の動きは「喜多方事件」として知られているよ。
この事件が発端となり、全国的に自由党と政府の対立が激しくなるんだけど、このあたりはいろいろ複雑だから、興味がある人は調べてみて。
この事件の舞台である弾正ヶ原は塩川町にありますが、このときに集まった農民の人たちは西会津の人が多かったと、こないだ地元で、誰かに聞いた気がします。
西会津は、現在も、芸術系の町おこしで独自路線を行っていて、独特な場所です。
福島県は自由民権運動が盛んだったそうですが、戊辰戦争から十数年で、そういう気風があったのですね。