私たち塩川なまずの里の会が活動する、喜多方市塩川町が自由民権運動の舞台だったことをご存じでしょうか。
塩川町と同じ時期に喜多方市と合併した、喜多方市熱塩加納町には、示現寺というお寺があります。
先日、熱塩加納町を訪れましたら、熱塩温泉地内の示現寺に、自由民権運動の激化事件の一つである加波山事件の関係者である、三浦文治、横山信六の顕彰墓石と、原利八の墓石がありました。
また、瓜生岩子の座像もありました。
瓜生岩子は、日本のナイチンゲールとも呼ばれる、喜多方市出身の女性です。
戊辰戦争では、敵味方の区別なく救護活動を行いました。
その後も、磐梯山の噴火での救護活動、県外での地震の支援活動、66歳の時には、日清戦争の傷病兵救護として水飴30貫を寄贈するなど、その人生を通して、人々の救済のために活動を続けました。
災害等での救護活動の他、会津地方に洋裁のための学校の設立や、育児会、産婆を育てる講習会を開くなど、女性が生きていくために必要な手段を身につけるための活動もしています。
その活動は、喜多方市内にとどまらず、63歳の時には、新しい一万円札の顔となる渋沢栄一に要請され、東京養育園で幼童世話係長として8ヵ月間働いたそうです。
東京都台東区浅草2丁目、浅草寺の境内にも瓜生岩子之像が建立されています。 https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk1137/
明治29(1896)年には、女性としては初めて藍綬褒章を受章しています。
同じ女性として、そして、同じ会津地方で育った人間として、尊敬しますし、少しでも近づきたい存在です。
ところで、塩川の自由民権運動は、三島通庸という当時の県知事に当たる人物が、福島県で無茶な工事を行ったことが引き金になっています。
先に出てきた、加波山事件というのは、三島通庸等の暗殺未遂事件で、明治17(1884)年に起きています。
喜多方市の瓜生岩子の年表を見ると、明治15(1882)年に瓜生岩子が54歳の時に、三島通庸と知り合ったそうです。
三島通庸に関わった人物達が熱塩加納町の示現寺に葬られているのですね。