岩代の国の塩川というところがあった。水運の宿駅として大きな廻来船が毎日往来し、繁栄している川港の中心地の街でにぎわっていた。
水夫や商人たちが泊まる旅籠がたくさんあって、岩代屋という屋号の旅籠に年季奉公にだされている丁稚のぜんべいという名の小僧がいた。
そのぜんべいの母親が流行り病で急に亡くなってしまったので、ぜんべいは悲しさから茫然自失になってしまった。
泊客から預かった荷物を別の泊り客が帰る際に、間違って渡してしまったり、お風呂の湯船の清掃をした際に湯船の底の栓をするのを忘れて、湯船にお湯が溜まっていなくてお客に迷惑をかけたりと、次々と仕事でへまをするようになってしまった。
番頭からぜんべいはこっぴどく叱咤されたので、ぜんべいは生きているのが辛くなり投げやりになり、旅籠を飛び出して死のうと川に身を投げた。
余りにも苦しくて苦しくて、そして段々と苦しさがうすれてくると意識が遠のき始めた。
すると金色の大きな鯰が近付いて来て、その鯰はぜんべいの身体を頭の上に乗せて、泳いで川岸まで運んでくれてた。
ぜんべいは死にきれなかったことを悔やみ大泣きをしていると、白髭の老人が現れた。
現れた白髪の老人は、ぜんべいの心の内を察知しておられている様で、諭すように話しを始めた。
「母親の死によって茫然自失になるのはわからないでもないが、生あるものはいずれ死ななければいけないのが宿命なのだから、ぜんべい死に急いではならぬ! 命を粗末のするもんじゃない。
自ら命を絶つことを、亡くなったお前の母親だって望んではおらぬぞ。いいか、お前の命というものは自分一人の命であるようで、自分だけの命では決してない。
わしがなぜ、このようなことを言うかというと、お前が生を受け、今こうして存在していられるのは、父親母親という両親が二人がいるから、あたりまえのことだが、更に父親母親にもそれぞれ、両親である祖父祖母が二人づつ四人いる。 祖父祖母の四人にも、両親である祖々父祖々母が二人づつ八人いるというふうに、祖々父祖々母の八人にも・・・・・とさかのぼってたどっていくと、十代前で千二十四人になる。
十代前で千二十四人が存在していたことになり、その人たちの一人でも存在していなかったとしたら、今こうしてお前も存在していないことになる。
さらに、さかのぼってたどっていくと、二十七代前で一億三千万人(正確には134,217,728人 今現在の日本の国の総人口をとうに超える)を超え、三十代前で十億人を超え、三十三代前で八十億人(正確には8、589,934,592人 今現在の世界の総人口をとうに超える)を超えてしまう。
何度も何度も同じことを言うが、三十三代前で八十億人を超える人たちが存在していたからこそ、お前が存在していて、とにかく気の遠くなるような生命が連なっていて、三十三代前には八十億人を超える先祖がいたことになる。
その中のたった一人でも欠けていたとしたら、お前は存在していないのは紛れもない事実なのだから、命を粗末にするもんじゃない。
だから、おのが命は自分一人の命であって、自分だけの命ではけしてない。
お前はまだ独り身だが、のちに赤い糸で結ばれている伴侶との間に、三人の息子が授かるはずじゃ。
そして、お前のそれぞれの息子が 所帯を持って、子供を二人づつ得て六人(孫)になり、その六人(孫)の子供が 所帯を持ってと、さらに・・・・・と子供を二人づつ得ていったとしたら、やがては途方もない大変な数の子孫の頂上にお前たち夫婦が立つことになるのじゃから、自分の命を大切にしなければいけない。
命を伝えていかなければいけない使命という責任があるのじゃ。
三十三代前を更にさかのぼって行くと、途方もない生命が連なっている。人類皆兄弟であり、人類皆親戚とも考えられ、自分の命を大切にするように、他人様の命も大切にしなければいけないことも忘れてはならんぞ。」
話し終えた白髪の老人が今度は、「川の方を見てみろ。」と指差してきたので、ぜんべいが川の方を見ると、自分を川から助けてくれた、金色の大きな鯰の頭の上に、亡くなった母親が乗って立っていた。
そして、亡くなった母親は微笑みながら「ぜんべい、どんなことがあっても生ききってくおくれ。いつまでもお前を見守っているからな。」と言い終わると、亡くなった母親と金色の大きな鯰と白髪の老人の姿が消えてしまった。
死にきれなかったことを悔やみ大泣きをしていたぜんべいだったが、笑顔になって元気に歩き始めた。
白髪の老人が言ったように、その後ぜんべいは所帯を持ち三人の息子を授かったとさ。
おしまい。
作者 ©鈴木孝夫 2019年 (許可なしに転載、複製することを禁じます)